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志摩の国 国造主の墓?

金曜日, 11月 1st, 2013

志摩市教育委員会は29日、同市阿児町志島の市指定史跡「志島古墳群4号墳(塚穴古墳)」について、「6世紀末から7世紀初頭に志摩の国を治めていた志摩国造(くにのみやっこ)の墓の可能性が高い」とする調査結果を公表した。また、石室内を同日、報道関係者に初めて公開した。

 海岸近くの崖の上にある塚穴古墳は、海蝕(かいしょく)で土を盛った墳丘が失われたため、石室が崩落する恐れがあり、市教委が2012年度から3か年計画で発掘調査を進めている。
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 石室内からはこれまでに、多くの須恵器や土師器(はじき)、鉄鏃(てつぞく)(矢尻)、鉄くぎなどのほか、金銅製の耳環や石で作った勾玉(まがたま)、ガラス製の丸玉などの装身具も多数発見されている。

 市教委は、ひつぎを納める玄室(長さ約7メートル70、幅約2メートル20)が、県内では東海地区最大級の高倉山古墳(伊勢市)に次ぐ大きさであることや、発見された豪華な副葬品から、被葬者が志摩半島南部にあった志摩国の有力者で、志摩国造の可能性があるとしている。

 市教委は、副葬品などは今後、土などを落とす保存処理をしてから一般公開する。11月10日午前10時から現地説明会を開く。申し込み不要。車は古墳近くの志島小学校グラウンドに駐車できる。問い合わせは市教委(0599・44・0339)

(2013年10月30日 読売新聞)

真珠は出ない?

悟りの窓

土曜日, 11月 27th, 2010

初秋の風爽やかな季節に京都の源光庵を訪ねた。
(京都市北区鷹峯北鷹峯町47)

源光庵(げんこうあん)は、京都市北区鷹峯(たかがみね)にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。
1346年(貞和2年)に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基。当初は復古堂と呼ばれた。
その後、1694年(元禄7年)に卍山道白により曹洞宗に改宗、建立された。

本堂内の天井板は伏見桃山城から移築したもので、1600年(慶長5年)に徳川家家臣鳥居元忠一党が石田三成に破れ自刃した(380余名)ときの跡が残り、血天井となっている。(実際に血の足跡や手形が見えます)
その脇に悟りの窓と名付けられた「丸窓」と、迷いの窓と言う「角窓」がある。

源光庵 悟りの窓と迷いの窓
悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表現し、円は大宇宙を表現している。
迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し生老病死の四苦八苦を表している。


そんな悟りの窓を前にしても枠に嵌りきらず、はみ出してしまった岩城であるが、こんなおバカな奴にも悟りの日は来るのだろうか?
悟りの窓にて、悟ったらしい・・・お馬鹿な岩城

さて、この日は訳があって中型の観光バスを貸しきっての大人の修学旅行と相成りました。
快適なサロンバスにドライバーさん+バスガイドさん+大人の女性5名+岩城の総勢?8名での移動。
当然車内はガラガラ(笑)天気は快晴、最高の秋晴れと条件が整いました。
一番北にある源光庵を皮切りに、「金閣寺」を散策し、「龍安寺」で石庭で心を静めた後、庭園内にある西源院で昼食の湯豆腐を頂戴しました。
京都で食する湯豆腐は、これまた不思議なのですが美味しく感じるものです。
個人的に興味があったのが続いて訪れた「仁和寺」です。

仁和寺は出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。


春の桜は「御室桜」と呼ばれ京都の観光名所として有名ですが、秋の紅葉も五重塔を周辺になかなか風情があり良かったです。


この門(勅使門)の奥が仁和寺御殿で、お寺と言うようりお庭も含めて宮殿風の雅やかさが漂っています。


頂戴した仁和寺のパンフレットには、二王門と書かれていますが、市販のガイドブックの殆どが仁王門と称している。

さて、一番みたい「宝相華蒔絵宝珠箱」(ほうそうげ まきえ ほうじゅばこ) は、 平安時代前期の漆工芸品。蒔絵の初期の遺品として貴重な品で国宝に指定されているために見ることは叶いませんでした。
しかし、近世初期の皇居・常御殿を移築した宸殿(しんとの)*1は、池を配したお庭に囲まれ優美な空気が漂っていました。
内部は極彩色の襖絵で飾られ、宸殿の上段の間には、床、違い棚、帳台構を配し見る目にも鮮やかな造りです。
その書院に使われている螺鈿を詳しく見れたことが嬉しかったです。
*1、1887年(明治20年)に焼失。現在の建物は明治時代末-大正時代初期に亀岡末吉の設計により再建されたもの



拡大しますと

鰒(あわび)貝のような気がしますが、近づいて見る訳にいかず、次回の宿題とします(笑)



「螺鈿紫檀五弦琵琶」

木曜日, 11月 4th, 2010

19年振りに、「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんびわ)」が一般公開されると知り、奈良国立博物館の第62回正倉院展に行ってきた。(11月3日:文化の日)
今年は平城京遷都1300年記念、及び光明皇后の崩御1250年目にあたる年でもあり、皇后ゆかりの品としての意味合いが強い出展品が多い。
日本の歴史を紐解くと、都が藤原京(奈良県橿原市)から平城京に移ったのが710年、奈良時代はこの年から始まる。
756年に聖武天皇(しょうむてんのう)がお亡くなりになり、悲しんだ光明皇后(こうみょうこうごう)が天皇の身の回りの品を大仏に納めた。その数は膨大で天皇愛用品のほか、仏具や貴族からの献納品を含めて約9000件にも及ぶ。それらを納める倉が正倉院(しょうそういん)の始まりです。

さらに今回、別の場所から聖武天皇ゆかりの品が1250年振りに確認されました。
光明皇后が,愛する夫の聖武天皇遺愛の品として756年正倉院に献納した幻の宝刀と呼ばれる逸品。
3年後の759年に正倉院から取り出してから、行方不明になってしまっていました。
今回、東大寺と元興寺文化財研究所が保存修理のためのエックス線撮影でホンマもんと判明し,2010年10月25日に発表しました。


陽宝剣(上)と陰宝剣の柄=25日午後、奈良県生駒市の元興寺文化財研究所保存科学センター

≪読売新聞 転載≫
 

奈良市の東大寺・大仏殿内で明治時代に見つかった国宝・鎮壇具(ちんだんぐ)のうち2本の金銀荘大刀(きんぎんそうのたち)(ともに刃長約80センチ)が約1250年間、所在が確認されていなかった正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようのほうけん)」「陰寶劔(いんのほうけん)」だとわかり、同寺と元興寺文化財研究所が25日、発表した。

 陽寶劔、陰寶劔は聖武天皇(701~756年)の遺愛品で、妻の光明皇后(701~760年)が献納した後、正倉院から持ち出され、“幻の宝剣”となっていた。

 鎮壇具は1907~08年、大仏の右ひざ付近の須弥壇(しゅみだん)から出土した。金や銀で装飾された大刀6本や銀製小壺(しょうこ)など計19件ある。奈良・同研究所保存科学センターで、金銀荘大刀2本をエックス線で撮影したところ、刀身の根もとに「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」と象眼された銘が確認された。刃の長さや把(つか)にサメ皮を使った点なども、正倉院宝物の目録「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」記載の陽寶劔、陰寶劔と一致した。

 国家珍宝帳は、聖武天皇の遺愛品を756年、妻の光明皇后が東大寺大仏に献納し、正倉院に収めた宝物の目録。陽寶劔、陰寶劔は大刀100本の筆頭に記され、最重要の刀とされる。陰陽一対で万物の調和を願ったらしい。

 陽寶劔、陰寶劔は、国家珍宝帳のうち、後に持ち出された「除物(じょもつ)」の付せんがある7点のうち2点。正倉院の「献物出用帳」には、光明皇后が亡くなる約半年前の759年12月に持ち出された記録が残る。「除物」扱いの宝物で、所在が特定されたのは初めて。

 今回の調査で、別の銀荘大刀には北斗七星を象眼した七星文が確認された。

 杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長(古代史)の話「死期の迫った光明皇后が、聖武天皇と大仏の力で平和が続くことを願って埋めたのではないか。鎮壇具には、ほかによろいの一部や水晶玉などがあり、これらも除物の可能性が出てきた」

 ◆鎮壇具◆
 寺院で堂塔を建設する際、土地の神を鎮めて安泰を願うために埋められた金銀、水晶、刀など。奈良県明日香村の飛鳥寺の塔(6世紀末)や奈良市の興福寺中金堂(8世紀前半)などで出土している。
(2010年10月25日17時56分 読売新聞)





陽劔と陰劔と刻まれた大大刀のレントゲン写真(元興寺文化財研究所提供)

剣は鉄製で,共に長さ約1メートル。1907年,大仏様が座る須弥壇南西,右ひざ下付近に掘った深さ約45センチの穴から出土し,銀のつぼ,真珠等と共に「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されていました。
宝刀も素晴らしいと思いますが、どちらかと言えば一緒に出土した、1250年以上前の真珠をこの目で確認をしたいです。
今回は、その雰囲気だけでもと思い立ち、うん十年ぶりに東大寺の大仏さんと再会をしました。
東大寺大仏殿2010/11/03 岩城撮影
須弥壇南西ですからこの足元から出土したことになります。2010/11/03撮影

また,今回の調査で,別の鎮壇具「銀荘大刀」から,皇帝の文様である北斗七星を表現した「七星文」も見つかったそうでが、北斗七星と言えば、岩城家の信仰する「霊符山太陽寺」が北斗七星をご本尊としています。
三重県宮川村にあるこの寺は、曹洞宗の寺で平安時代の中ごろ、花山法皇が西国三十三カ所巡りの途中に立ち寄り、時代は下って伊勢国司・北畠材親(ただちか)が堂宇を建てて祈願所にした。本尊は北極星と北斗七星を本体とする北辰妙見菩薩です。
三重県宮川村 霊符山太陽寺
岩城の生まれ、志摩の漁師を生業とするものは大祭りの際に一家総出で、私も小さい時分から片道3・4時間の道のりを越えて連れられて来たものです。
前回訪れた際には、叔父が私の名前で門前の旗を寄進してくださってました。親戚とは本当にありがたいことです。
閑散とした場所にあるお寺ですが歴史的には面白く、信長の伊勢攻めの際、戦火を浴びて焼失したが、文化3年(1806)から17年をかけて再建され、本堂の内陣の天井には狩野派の絵師による見事な巻き竜が描かれている。辺鄙な場所にある小さなお寺ですが、太陽寺の名前のように大きな思想を持った由緒あるお寺です。
霊符山太陽寺 三重県宮川村

さて、目的の螺鈿ですが会場に入る前に琵琶の解説をしている方がいましたので、音色を聞かせて頂き色々質問をさせて頂きました。
琵琶と音大生
螺鈿の細工部分を詳しく見せて頂きました。
この品もなかなか綺麗で、中国で製作されて日本円で20万円程度で購入されたとか。



この部分の上部中央を拡大してみると


琵琶の本体部分にデザインを施し、木を削って空枠を作ります。今度は貝を削りだして凹んだ部分にはめ込み、全体を平らに削りだします。
曲線が多いデザインだとそれだけ難度の高い作業になるわけです。

今回展示を許された「螺鈿紫檀五弦琵琶」は全長108.7ミリ 幅30.3ミリ 厚9.0ミリの小ぶりの5弦琵琶。
現存する古代の5弦琵琶では唯一の遺例です。

公開されている拡大画像が少ないので、自分の目で確かめたかったのですが、先程の琵琶との細工の違いは一目瞭然でしょう。

フタコブタクダに乗って四弦琵琶を演奏している人物、及び熱帯の植物・飛鳥・岩・草花にヤコウガイを用いています。その背後の褐色の多い部分に玳瑁を使用しております。

裏文様にある朱の使い方も興味を引くが、光の具合で表情を変える螺鈿の配置の妙は、実際に現物を見てその変化を確認したものでないと判らない。
螺鈿は主にヤコウガイ・アワビ・アコヤカイなど各種の貝殻を研磨し、文様の形に切ったものを漆地や木地に嵌め込んだり、貼り付けて装飾を施すのですが、今回の螺鈿紫檀五弦琵琶は木地に直接文様形を彫って貝片を埋め込んでいます。
裏面の唐花の赤い部分は「伏彩色(ふせざいしき)」と言い、玳瑁(タイマイ:海亀)や琥珀(コハク)を嵌装する器面にあらかじめ彩色を施す技法を用いています。
今から1400年前の、西暦600年や500年代にどれだけの夜光貝が採れたのだろうか?
この螺鈿の大きさから想像すると、とてつもなく大きな巻貝が生息していたことがわかるのですが。
今回発見された宝刀と共に、1907年に出土した真珠はどのようなものなのか?
装飾用に用いられていたのか?それとも祭祀の為に埋めたのか、はたまた医療品として貴重な薬にと用いたのだろうか。
奈良時代と真珠の関係性を探る楽しみが増えました。

日本人に生まれてよかったと思う一日!。ありがとうございます。