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日本書紀に見る真珠

真珠を尊ぶ古代日本人のこころ 美しい真珠は神々も欲しがる?

日本書紀は、奈良時代に舎人親王らの撰で完成した、
日本に伝存する最古の正史です。
神代から持統天皇の時代までを扱ったこの歴史書の中にも、真珠はたびたび登場しています。

『秋七月辛亥朔乙卯后泊豊津浦是日皇后得如意珠於海中』
巻第八 仲哀天皇の二年(193年)

豊津の海から真珠が取れた。これは凄いことだという内容です。
如意珠は仏教の如意即至宝につながります。
つまり、当時の真珠は相当「貴きもの」として崇められていたのでしょう。

その他にも、

巻第十一 仁徳天皇(325年)
巻第十三 充恭天皇(425年)
巻第十六・十八 武烈天皇(449年)

の中に真珠に関する記事がみられます。

例えば、巻第十三の十にはこのように記されています。

充恭天皇の14年の秋、9月12日。天皇は淡路島に狩猟に出かけられた。
そのとき大鹿、猿、いのしし、などが山や谷に炎が燃え盛るほど沢山いるのに一頭も獲ることが出来なかった。
これはおかしいと思い 猟を止めて占いをさせてみると、
「嶋の神の祟りである。獲物が獲れないのは私の心がそうさせているのだ。
赤石(明石)の海の底に真珠がある。その珠を取って供えて奉ってくれるならば 獲物はすべて得ることができよう」 と言われた。
それで、いろいろなところから白水郎(あま)を集めて明石の海底へ潜らせたのだが、深すぎて誰も海底まではたどり着けなかった。
そんな中、阿波(徳島)の長邑(那智郡)の海人(あま)男狭磯(おさし)が腰に縄を結び海に潜る。
「海の底に大きな鰒(鮑 あわび)が光っとる」
皆は「嶋神さまが欲しがっているのはきっとこの鰒の腹のもんじゃろ」 と言う。
男狭磯はもう一度潜り 大あわびを抱いて戻ったが、そこで息が絶え、波の上で死んでしまった。
(ちなみに、その時の深さ60尋 およそ70メートル)
男狭磯が獲ってきたあわびを開いてみると 中に桃の実ほどの真珠があり、この真珠を嶋神さまに供え祀りあげところ、その後、狩猟をすると多くの獣を獲ることが出来たという。
皆は真珠と引き換えに男狭磯が死んだことを憂い悲しみ、墓を作って手厚く埋葬した。

この文で見分けられるように、真珠といえば「あわび」珠だったのでしょうか。
いえいえ。そうではなく、ちゃんと真円の「あこや」珠もあったようです。

巻第二十五 孝徳天皇 大化二年(646)、この条に埋葬の詔(みことのり)あります。

その内容は

あまり派手な葬式をするな。
身分の高さによって墓を作るな。
棺に漆を塗ったり、埴輪(はにわ)を入れたりするのは愚かである。

要するに、葬は隠すことであり 人の見えないところに埋めるものであるという意味です。
派手にして目立つ事をするのは愚かな行為とされていました。
そして、この詔の中に「珠玉を口に含ませる」と記されている文があるのです。

そして、この文の「珠玉」こそ、
昭和54年1月18日に発見された太安万侶の墓から出土した真珠4個だと考えられます。

この真珠は直径2ミリ〜3ミリの円形の珠で 遺骨と共に灰土の中から出ました。
この墓は底に木炭が敷き詰められ、
その上に墓誌の銅板が置いてあったので、太安万侶と限定できました。
安万侶の屍は火葬されたの後、改葬されています。

この真珠が
副葬品なのか、
どこの産物か、
なぜ火葬で焼けなかったのか、
などなど謎も多いのですが、おそらくこれは「あこや」珠なのではないでしょうか。

現在の志摩地方でも、死者の口に水を注いだり
米粒(真珠)をいくつか口にいれる習慣が残っています。
この習慣は、「飯含(がんはん)」や「送終口中玉」と言って、
周の時代の中国にはすでに存在していたものです。
中国では普通は奇数を重んじますので含玉は1、3、5という数になったのでしょう。
しかし、日本は偶数尊重の文化ですから、
安万侶は2個づつ奥歯に入れ4個となったのではないでしょうか。

最後に、志摩の海が『真珠の故郷』と謂れの所以は、
吉田東伍の『大日本地名辞書』にて読み取ることが出来ます。
大日本地名辞書の志摩国の項に、
『日本書紀に阿波び之羅陀魔(あわびしらたま)とあるを私記に真珠と訳す
即 阿古也玉(あこやたま) 一名志摩白玉と伝者是也
此志摩津というは志摩人の謂にて国造本紀に志摩国を島津に作る』と記されてます。
遥か昔から志摩の海は豊穣の海だよと褒めて貰った気分です。心から嬉しくなった一文です。

お読み頂き、ありがとうございます。

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